バターライスタイムマシン

ICU待合室はほの暗い。窓の外の喧騒と看護師の話し声が遠くから聞こえる。看護師の廊下を歩く音だけが耳元で響いている。僕はその待合室の扉が開かれるのが正直怖い。

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今朝、親父が緊急搬送された。いつもは煩わしい親父だけど実家の床に張りついて浅い呼吸を繰り返してる姿をみると心配の方が込み上げる。CTスキャンの結果「大動脈解離」と診断された。緊急手術しないと死んでしまうとのことだった。担当医師は徹底的に楽観的意見を排除し最悪の場合の説明を淡々としている。耳では説明が聞こえているけど、内容が頭の中に入ってこない。ただただ呆然としている。そんな僕を見かねて、お袋が大丈夫?という。医師も大丈夫かい?と僕に言った。

 

緊急手術による生存率は50%。万が一のため、家族を呼びなさいとのことで兄弟を呼ぶ。手術前にエレベーターの前でストレッチャーの上の親父と顔を合わせる。頑張れ、大丈夫か?と声がけする。

 

親父は「大丈夫じゃないけど、水が飲みたい」

 

これから10時間の手術をするような患者とは思えない間の抜けた返事をした。

 

親父、生きて戻ってこい。最後の言葉がそれだと格好がつかないだろ。

待合室では、時間が膨張しては収縮している。早いのか遅いのかすら分からない。居ても立っても居られないのに、何もする気になれない。ただ、この状況を記録してみようと試みる。書いては天井を仰ぐ。

小さい頃の思い出とか思い出そうとしたけど、怒られたことしか覚えてないな。でも、お袋がいない時に作ってくれた、べったりとしたバターライスの事を何故か思い出す。冷蔵庫の残り物を入れるスタイル。見た目は不味いが、味は悪くなかった。体操選手が演技を失敗しながらも最後の最後で素晴らしい着地を決めたように、後乗せでバター(今思えばマーガリンだったような気がする)を入れて、醤油で香り付けする。ソース味もあって、そこは僕のリクエストに応えてくれた。野暮ったいけど、僕は嫌いじゃなかったよ。味覚と記憶は混ざり合うと忘れられなくなることを知った。

僕の肉親は親父と弟だけだ。母親が育ての親と知ったのは30代半ばだったと思う。映画みたいだなと思った。でも僕は何のヒーローでもなく、ただ数奇な人生を生きているだけだ。(もちろん、僕以上の数奇な人生を歩んでいる方がいるのは理解しています)母親が親権を持つ場合が多いが親父は僕と弟を引き取った。この辺りの事情は聞きづらかったから聞かなかった。親父から話して欲しいと願って、時は悪戯に過ぎた。いま、親父は大切なことを墓場に持っていこうとしている。

医療従事者の皆様には頭が下がります。緊急手術を受けてくださった病院にも感謝しています。執刀医の先生は僕に怖い話ばかりしたけど、親父のために10時間という気の遠くなる時間を手術してくださることになりました。ただただ感謝しかありません。

いつも喧嘩ばかりだけど、僕という人間が完成するまで、あともう少し親父に生きていて欲しいです。